自画像「サタデーナイト」について
実にハッピーな絵である。何が?絵の中心にいるおっさんが、すなわち画家が…作者の原氏がハッピーなのである。
玩具めいたロボットの殻を被った男が同じような身体の赤子を抱く。しかし、そのうちに男の手足はロボットの体を破り、生身の人間性をむき出しにする、そんな画である。
そこには子供を前にした男の無邪気にして爆発的な喜びを感じられる。
しかもこの絵、超でかいのである。
あっけらかんと子供を得た喜びを表現するような作品である。
しかし…このあっけらかんとした作品、美術史的にはどうだろう?
もともと、絵画というのは感情の表出が小さい芸術である。人間の喜怒哀楽をなるべく表さないのが礼儀とでもいうのか。
それは画家が上流階級人士のしもべとして絵を書いた時代だけではなく、ロマン派を超え、印象派を超え、現代に至るまで、人間の感情を剥き出しにするシーンを描く絵画は美術界の中心を占めない。
人を描く絵画のジャンルはなるほど、多い。宗教画や戦争画だけでなく、肖像画に風俗画…、しかし画家は画題に肩入れせず、あくまでも三人称的に、冷淡に、画題と向き合う。画題となる人物も、無表情であり、あるいは茫洋とした笑み―アルカイックスマイル―を浮かべ、どこかとりとめのない…あるいは「おすましした」雰囲気だ。
それがたとえ人の死や破滅を描く悲劇であっても、画家は冷静さを失わない。
冷静なのが画家らしい心構え、とでもいうべきなのだろうか…?描く者、描かれる者、見る者、三者が感情をむき出しにして向き合うことはあまりない。画家は画題に対して黒子に徹し、見る者は絵と本人だけの対話を楽しむ…それが流儀のはずだ。
ところが、この絵は違うのである。原氏は己の感情をむき出しにして等身大よりもバカでかい自画像を描いて我々に迫ってくる。「どうだ!これが俺の喜びだ!」と。
絵の中で原氏が破ったロボットの殻は、絵画の約束事も破り、演劇でいうところの「第四の壁」―役者と観客を隔てる仮想の壁―もぶち破って我々に噛みついてくる。
気を呑まれて「お、おう、よかったな…」とでも言うしかないのか?
凄まじいまでのエゴの発露!そして伝統への挑戦。とにもかくにも…野心的一枚である。
「古戦場」について
思い出すのはジョルジュ・デ・キリコとか、ICOとか…。
写実を主戦場とする原氏の作風としては、この作品は極めてテクスチャ的だ。
のっぺりとした明るく黄色い空、波を立てない暗い群青色の海、傾斜した白い地面は、いずれも無機的でものを語りかけない。地面に突き刺さり、斜めに傾いた塔もやはり無言である。剣を片手に持った人影は、こちらを向かず何も語らない。
静謐な…むしろ空虚な空間が広がるのである。構成要素は確固たるものなのに…、要素は何一つとして意味を持たない。
世界の果てまで来たけど、やはり何もなかった、とでもいうような虚無感と失望が漂う…そんな画題になっている。
しかし、この絵の魅力はそういう空虚さではなく、むしろ構成要素の官能性にある。
砂地のガサつき、黄色い空の僅かな輝き、群青色の海の濃淡…その表面を荒らすスクラッチの傷跡…それがむしろ魅力的な風合いになっているのである。
虚無的な画題に対して、テクスチャが上回っている。
とても価値ある風合いではないか。ここに来て見るものははじめて、この絵に触れてみたいと思うだろう。カサカサとした空に、粘度の高い海に、ザラザラとした地面に直に触れてみたいと思えるだろう。
画には…世界には意味がなくてもいいのだ、充分美しいではないか。
「ギアスの眺望」について
スーツを着たウサギであるギアス氏が窓辺に座ってコーヒーを飲んでいる。窓の外に広がる光景は午後の穏やかな水面、町並み、雲…しかしそれは平凡にして奇想…
上中下で3つの画題が交錯する作品である。
上段はマグリット風の青空に開く窓…現実にない風景のシュールレアリスム、中段はフェルメール風のというよりもデルフトの眺望を意識した風景画、この2つは窓の外である。
…下段はギアス氏の座るテーブルの上で、デルフトの眺望の前景部の人々が過ごしている。
この小さな人々はブリューゲル的とでも思えるような人々である。
このギアス氏を含む4つの画題は一つの画面の中で相互に緊密に溶け合ってしまっている。デルフトの眺望の空はマグリットの窓と融合し、運河の手前の地面はギアス氏のテーブルとなり、ギアス氏は飛び出したおじさんにコーヒースプーンを取られ…窓外を眺める側では居られない。
ここでは絵の内側と外側だけでなく遠近法も無視され、ギアス氏は等身大になったり巨大化したりする。
見る側の「わたし」はテーブルを隔ててギアス氏と窓の外を眺め、「なんだか変なことになっているなあ」などとのんびりと構えている…呑気なものなのである。
「手紙」について
フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」をモチーフに取った作品である。
フェルメールの絵は窃視的である。
窃視…盗み見、という意味である。
英語ならpeepingとかvoyeur。第三者の性行為を眺めて自慰行為する…ポルノの基本姿勢である。
他人の恥ずかしい秘密…プライベートな…性的な秘密を、うっかり…あるいは意図的に「見てしまう」ことの快楽。これがフェルメール作品の多くに通底する魅力である。
そして近世のネーデルラントらしく、官能的…というよりは寓意的に組み立てられたポルノグラフィと言ってもいいだろう。江戸時代の判じ絵のように読み解く楽しみがそこにある。
さて、もととなった「窓辺で手紙を読む女」の詳細な解説は本職に譲るとして…大事なのは数点の要素である。
明るい窓辺で手紙を読む女、壁にかかったキューピッドの絵、皿から溢れた果物、半分掛かったカーテン、の要素。
寓意的に読み解けば…女が手紙を読んでいる。相手は道ならぬ関係にある恋人である。女と恋人とはすでに身体的関係がある。その恋人から来た手紙は良い内容なのだろう、女は頬を染めている。女の華やいだ気持を示すように開け放たれた窓辺は明るい日差しに包まれていて…それをカーテンの影の暗がりからこっそりと眺める我々は、この女の家族なのか、はたまた第三者なのか…?…と言う感じか。
この寓意の物語を原氏は崩していくのである。
すなわち、キューピッドの絵は後ろを向いたカバに、皿から溢れた
果物はイヌの仕業となり、本来の寓意性は消し飛んでしまう。椅子の上にはトカゲのような怪しい顔が見え、カーテン越しにコッソリ眺めていたはずの私の位置には何故かギアス氏が立っていてカーテンからはみ出して女を覗いている。変わらぬのは頬を染めた女のみ…。
ここに来ては寓意もへったくれもないものである。
今にも覗きがバレそうなギアス氏と恋文に夢中な女…いや、ギアス氏と女の関係性がわかったわけではない。実はギアス氏が恋文を送った恋人なのかもしれないし、妻の浮気を心配する夫なのかもしれない…。
かくして…道ならぬ恋愛に溺れる女を描いたはずの画面はギアス氏一行の登場により狂騒と混迷へと向かっていくのである…。
「未明の出発」について
筏に乗って出発しようとするギアス氏。
静かな朝の情景である。
画面は対象的な4つの構成要素で成り立っている。
どこまでも凪いだ海の、早朝の光を反射してねっとりと輝く水面を写す近景、簡素な筏に乗り旅立とうとするギアス氏を描く中景、白く明るく光る水面の遠景、水平線を境にどんよりと曇る空の無限遠…
明るく白い水面とハッとするほど美しい近景の水面に惹かれた視線は、しかし、奥に進むに連れ、この旅立ちへの不安感を増大させてゆく。
水平線の彼方に垂れ込めた暗雲はこの航海の困難を予想させ、どこにも岸辺のない画面は、目的もなく漂うばかりの寄る辺ない旅を想起させる。
しかし、水平線を遥かに見つめるギアス氏は横顔となっており、表情の子細が見えず、何の不安も感じていないようにも感じられる。それゆえ、いいしれない不安感は見る側の方にだけ襲ってくる。そこにはギアス氏と見る者の間の断絶がある。
―ギアス氏はこのまま無事に目的地にたどり着くのだろうか。
ギアス氏は何故旅立つのか。
ギアス氏は何故一人なのか。
何故嵐が来ようとする日なのか。何故ほとんど何の装備も持たないのか。
決死の渡海を試みるギアス氏を追い詰めたのは何者なのか。
待ち受けるのは悲劇なのか…。
明るく美しく静かな画調と対立するように、孤独感や不安感が見るものの心を引き付け逆撫でしていくような各部の要素が緊張感のある画面を形成しており、見るものは様々に引き起こされる感情との対話を強いられるだろう。
ニューヨークの街角の大作「朝」について
「 原氏の絵は人の気配のあるホッパーというか、むしろロックウェル的なのか。トーンは軽め色彩淡めだけど。
アメリカの近現代絵画は、描き手の自己と風景との間に断絶というか疎外感というか、相互に拒絶しあう気配があって、それが見る者が風景の中に感情移入できない逆なでする感覚があり、逆にそれが魅力的なのだけど、そういう悩みがないのはいい。
つまり、──デリの前にギアス氏が立って新聞を読んでいる。デリの壁に拠って、朝の日差しを浴びていて、ここではギアス氏は風景から拒絶されていない。私は、ギアス氏を横断歩道の手前でみかける。横断歩道は赤で、青になったら進んでいくだろう。ついでにギアス氏に挨拶でもしようか…、──と考える余地がある。この絵では見る者が画面の奥に行くための通り道が準備されていて、拒絶がない。そういう雰囲気の差。」
当時の自分は赤信号や朝に時間を感じていたように思いますね。
絵という時間を切断する表現に対して、象徴的に用いられた要素が時間の流れを感じる余地がある物語性がある、という意味になるのでしょうか。