· 

渋幕通信に記事を掲載していただきました

渋幕通信・第41号・令和2年12月22日発行
渋幕通信・第41号・令和2年12月22日発行

個展会場で取材をしていただきました

先日の日動画廊での個展の際、母校「渋谷幕張」の会報委員の方々が会場に来てくださり、色々とお話をさせていただきました。

会報委員のメンバーは、在校生保護者の有志の方たちで成り立っています。

インタビューの際、傍にはボイスレコーダー!ということで、初めは少し緊張しましたが、途中から楽しく和やかなムードに。

たまたま会場に渋幕出身の友人が居てくれたことも幸いしました。

ただ初めこのお話をいただいた時は、母校への新聞に自分のことなどが載って良いのか戸惑いました。

しかし少し変わった進路の先輩の内容も面白いかも!と思い直し引き受けることにしました。

この日はだらだらと話してしまったのですが、、

しかし記事からはそんな様子は微塵も感ません。

すっきりと無駄がなく、でも内容に漏れのない的確な文章で、膨大な時間や手間、情熱を編集作業にかけてくださったことが想像されます。

己を振り返るまたとない機会をいただけました。

会報委員の皆さま、本当にありがとうございました。

渋幕通信(部分)・第41号・令和2年12月22日発行
渋幕通信(部分)・第41号・令和2年12月22日発行

「渋幕通信」の記事


☆以下は記事の転載です☆

「仲秋の候、日動画廊で開催された「昭和会展ニューヨーク賞受賞記念 原太一展」。

銀座の老舗画廊の扉を開けると、原太一作品には欠かせないキャラクター、ウサギのギアス氏が相棒の犬とお出迎え。

共に憧れの地NYへと旅立ち、さまざまな光景や独創的な登場人物と出会い、自らを見つめ直すというストーリー仕立ての個展です。

原さんの分身でもあるギアス氏に見つめられながら、取材開始!


【子ども時代】
父が画家だったこともあり、絵を描くことや何かを作ることに最も価値がある、という環境で育ちました。


【渋幕時代】
最初はハンドボール部に入部。しかし、高校二年になっても一人だけレギュラーになれず、やはり得意なことを武器にしようと、美術部に入り直しました。

進路選択にあたっては、絵が得意だったことに加え、好きなことを一生懸命に追求している父の姿が浮かび、美大受験を決めました。

【画家になる決意】
美大を出ても就職する人がほとんどです。

卒業を前に就職活動には身が入らず、大学のアトリエに行くと、教授が唐突に「原はあれだろ、絵を描いていくんだろ」と言ったのです。

その言葉が転機となり、父からも「貧乏になる覚悟があるならいいんじゃないか」と言われ、描き続ける覚悟が決まりました。


【画家として生きる】
僕にとって絵を描くことは「こんな感じが素敵でいいんじゃないかな」という、とっておきのことを記録し、周囲の人へ伝える営みです。

ギアス氏と犬の二人旅には、僕が歩んできた人生の断片が投影されています。

象徴的、空想的なイメージを現実とミックスさせて表現しているのは、個人的な体験や感覚を一般化し、共感しやすいものにするためです。

 そんな作風を気に入って展示に来て下さるファンの方をいい意味で裏切り続けたい。

焦りもありますが、その為に新しい要素をどんどん入れて開拓していきたいです。

描けなくなることも度々あります。

そんな時は、退路を断つ!

絵を描くことでしか自分は生きていけないと、自分に言い聞かせます。

 また、目標を書いて壁に貼っていますが、意外と有効です。

いつか、これだ!と思える「いい絵」を描きたい。

死ぬまで絵を描き続けたいです。


【新棟に飾られている作品「未明の出発」について】

 三十代半ば、画家として進むべき道がぼんやりとしていた頃、そぞろ歩きをしていて、岸に係留された筏に目が留まりました。

その形や質感、佇まいが気になり、夢中でスケッチをしていると、筏の上に乗っているウサギのイメージが生まれました。

今になって振り返ると「先の見えない不安はあるが、怖れず旅立とう、進んで行こう」という心持ちが出ているように思います。

結果的にこの作品が日動画廊主催のコンクールに入選し、一歩前に進むことができました。



【渋幕生に一言】
 渋幕での多様な出会いは僕の宝です。

友人たちは展示に来たり、購入したりして応援してくれます。

田村校長先生も僕の絵を学校に飾って、背中を押してくださっています。

 また、自調自考の精神は、これからの不確実な社会でも、これだったら自分は世の中に繋がっていける、というものを見つける力になると実感しています。」